#いのちのパン研究所
これには痛い経験がある。
もう何年も前のことになるが、宣教団体のスタッフと付き合っていたことがある。私自身の至らなさと若さにより結局別れた。先方の両親にも挨拶に行き、気に入ってもらったというあとだった。突然、連絡が途絶え、もやもやとしていた時にメールが来てこう書いてあった。
『あなたは世界で一番かわいそうな人間です。なぜなら、誰からも愛されたことがないからです。」
同じクリスチャンで、彼女の仕事も手伝い、ご両親に会わせたのは、「誰からも愛されたことがない男」だったのか?と愕然とした。
しかも、宣教団体勤務で、こういう事を平気に書くことができるこの人は、一体何だろうと思った。
そのことがあってから、皮肉にもクリスチャンとそうではない人との区別をしなくなった。人の罪を犯す性質は、クリスチャンであろうとなかろうと関係がないことを身をもって理解したからだ。
その一方で、仕事上でも、プライベートでも、付き合う人をどこか醒めた目で見てしまう。
どんなに親身になってくれる人でも、眉に唾をつけて見る。
これは悲劇かもしれない。
でも、こういうことはなくなった。(続く)
#いのちのパン研究所
現実に、エレミヤを死刑にすべきと言った政府高官は、エレミヤ個人に恨みを持っているというよりも、国を守るために最善の発言をしたのだろう。
これは今日のウクライナのゼレンスキー大統領の発言と同じだ。
正義感を持って発言することが、必ずしも正しいとは限らない。
だから、どちらかが、正しい、そうするべきだと一刀両断に切っても意味はない。
現に、エレミヤも、この政府高官も、当のゼデキヤ王も、国を守るためにどうしたらいいか良いか、考えていたはずだ。最善は何かを悩んで決めたはずだ。
そのことは理解しないと読み誤る。
その上で、ひとりのクリスチャンとして、問われることは、『誰の声』に耳を傾けているか?だ。
「成功者=金持ち」という構造、「祝福を受けた=出世した」という構造は、今もクリスチャンの中にもあることを認める必要がある。
口先では綺麗なことを言っても、カネのことになると目くじらを立てるクリスチャンをいくらでも知っている。
ある牧師から個人献金を要請されたので、少しずつだが一定額を毎月やっていた。しかし仕事で遅れ気味になると、(続く)
「「主はこう言われる。この都にとどまる者は、剣、飢饉、疫病で死ぬ。しかし、出てカルデア軍に投降する者は生き残る。命だけは助かって生き残る。 主はこう言われる。この都は必ずバビロンの王の軍隊の手に落ち、占領される。」 役人たちは王に言った。 「どうか、この男を死刑にしてください。あのようなことを言いふらして、この都に残った兵士と民衆の士気を挫いています。この民のために平和を願わず、むしろ災いを望んでいるのです。」」
エレミヤ書 38:2-4 新共同訳
https://bible.com/bible/1819/jer.38.2-4.新共同訳
この種のやり取りは現実にもあるし、聖書にも出てくる。
でも、注意しないとならない点があると思う。
①正しいと多数派は必ずしも一致しない。
②発言者が合理的に判断して、発言しているのか?
③真理は一つとは限らない。
エレミヤが言ったことは、現実になっていく。
しかし、為政者や国家を愛する人々には、異様に見えたし、反逆しているように見えた。(続く)
#いのちのパン研究所
まあ製造業ならまだいいが、人の命がかかった仕事であれば、事は別だと思うが、本音を言えば、「こんなものだ」と納得する。
ISO審査の問題点は、審査機関が審査する先からお金をもらうという仕組みにある。ひどい場合は、審査される会社の天下り先になっていて、審査会社の大株主になっている場合もある。
そのせいか、相当ひどい違反がない限り、審査は通過するのだ。審査は言ってみれば、歌舞伎に過ぎない。
あとから、安全管理がなっていないと指摘されても、本来なら当の会社と共に、お墨付きを与えた審査会社にも責任をとってもらうのが、筋だ。
だからと言って、審査会社が全ての事案の審査は不可能だ。
根本的に何かが間違えている。
知床事故の最終報告書を公表 「安全管理体制欠く」:日本経済新聞
https://www.nikkei.com/article/DGKKZO74237340X00C23A9CE0000/
会社に勤め始めた時、ビックリしたことがある。
ISOの審査の前になると、管理職が一斉に書類作りを始めるのだ。
そして指令がくる。
1この工程変更の書類を作って下さい。
2この機械の変更申請を出してください。
3この災害の対応策をまとめてください。
大半が、事案の発生から既に何年も経っているものだ。いまさら何か?と思うが、返ってくる答えは、
「ISOの審査があるからです。」
「品質マニュアルに規定されたものです。」
というお役所でも言わない言葉だ。
過去の資料を調べて、記録を作り、
「日付はどうしますか?」
と聞けば、良心的な上司だと、「忘れちゃっていて仕方ないから、今日でいいよ」というが、大半は、
「矛盾がないように適当につけてください。」
と言い放つ。これじゃあ、偽造だ。
一回、「偽造だから、印を押さない」と突っぱねたら、印を偽造した上司もいる。(続く)
https://www.christiantoday.co.jp/articles/32697/20230902/jesus-reigns-japan.htm
こんなことをやっても誤解を招くだけなのに。
どうしてこういう馬鹿騒ぎをするのか?わからない。
彼らの自己満足のため、或いはストレス発散のためにやっているのだろうか?
私には、理解できない。
うち内で、閉ざされた空間でやるなら、楽しいかもしれない。
でも、このやり方は、明らかに失敗だ。紙面に載せること自体、間違えている。
日本のリバイバルを完全に阻止する行動だ。
聖書を読んでもらいたい。いつ、どこで、デモ行進をした記事があるのだろうか?
全く常識、社会通念上おかしい考えだ。
私はクリスチャンの一員だが、この団体、組織のあり方には大いに疑問を感じる。
https://twitter.com/JapanMission/status/1698298274761916862
献金について、Japan Missionという団体が、コメントを出している。
正直言って、愚かなことをしたものだ。
言わんとしていることはわかる。言っていることは、クリスチャンとして完全に同意する。
だからといって、理解されるとは限らない。この場合は、100%理解されない。
旧統一教会の献金に関しての課題を整理しよう。
①建前上、あるいは、教理上は、献金は各個人の自主性である。
②自分の財産は、自分自身の価値を感じるものに使う。
③献金の用途は、教会、教団で使われる。
実はこれは、どの宗教団体に限らず、労働組合のような中間団体に共通することだ。
口頭やその場の雰囲気に忖度して献金をするのは、自由だ。キリスト教会でも、神社でも、寺でも変わらない。統一教会でも、エホバの証人でも全く同じだ。
オウム真理教事件と大きく異なるのはこの点だ。強制的に徴収はしない。
だから問題がわかりにくい。(続く)
#いのちのパン研究所
「赦し」がないと、時間が止まったまま。
「赦し」がないと、やり直しが効かない過去を作り変える努力をする。
そこに残るのは、憎しみと悲しみだけだ。残った遺族までも、病気になってしまう。
それで、亡くなった方が喜ぶか?と言えば違うと思う。
赦しを言っているから、クリスチャンが信用できるか?と言えば、そうではない。とんでもない人はいるものだ。
私の友人のクリスチャンは、「その時に返って、キリストをそこにお呼びして赦すことができる」と言っていた。その同じ人は私に対し、「あなたは世界で一番可哀想な人です。誰からも愛されたことがないからです」と言った。
その人は人に伝道するときには、きっと「あなたは愛されるために生まれた。」と言っているはずだ。要するにご都合主義だったというわけだ。
それから、伝道集会のメッセージには、眉に唾をつけて聞くようになった。
結局、当時の私を助けて、支えてくれたのは、クリスチャンではなく、周囲で共に働いていた会社の同僚だった。
身近な人しか助けられない。そして、共に泣ける人だけが、「赦し」へと導く力になるのだ。
#いのちのパン研究所
この上田医師が言っていることは正しい。でも、私はもう一つの視点を忘れているように思えてならない。
こういう事件が起こると、厳罰を望み、極刑を求める意見が出てくる。
この裁判では、遅かれ早かれ、死刑になると思う。もちろん、裁判はやらないとわからない。推定無罪の原則があるからだ。
私が抜けているというのは、被害者家族の側の「赦し」だ。仮に裁判で死刑判決が出ても、弁護士は裁判を続け、再審を求め続けるだろう。でも、亡くなった人は、被告が処刑されても帰ってこない。処刑されたと聞いて、良かったと思うとは思えない。ずっと、被害者遺族の心には、悲しみ、苦しみが付きまとう。
私自身、「赦し」を言っているが、私だって赦すことができない人たちがいる。その多くが今もこの世で苦しむことなく、へいへいと過ごしているかと思うと、腑が煮え繰り返る思いをする。
でも、どこかで結論を出さないとならない。その唯一の方法が、残酷だが、「赦し」だ。(続く)
https://www.yomiuri.co.jp/national/20230903-OYT1T50039/
この世の中には、相手がどんな人であれ、助けを求めた人に応えなければならない仕事がある。その代表的なものは、医師だと思う。
相手が助かって、裁判で死刑になるだけだとわかっていても、その人を助ける義務がある。なぜなら、その人のいのちは一つだけだからだ。
昔、自殺をしようとして、道すがらに私のところに泊まった友人がいる。あとから、実は死ぬつもりで全て整理して出てきたときいた。彼の人生、彼の話を聞いて、ふと思った。「こんなことをして何の意味があるのだろう。」
でも、それは私には意味がなかったかもしれませんが、彼には意味があったのだ。
京アニ事件の犯人の命を救った医師が、本人に裁判で遺族に謝罪するように諭した。もちろん、犯人からの返事はない。
私には、この被告が裁判で謝罪するとは思えない。厳しい現実だ。なぜなら、自分の命がどうなってもいいと思ってしまえば今人を殺す心理的ハードルは極端に下がるからだ。(続く)
中国からの迷惑電話、実態は 発信元に折り返してみた:日本経済新聞
https://www.nikkei.com/article/DGXZQOCB010GM0R00C23A9000000/
福島第一原子力発電所事故に伴う処理水の海洋放出に対する中国の反応は異常だ。
日本からの水産物禁輸措置は、政治的意図があるだろう。どちらかと言えば、処理水は口実で、国内の政治的な問題に起因すると言っていいと思う。
それよりも、嫌がらせ電話は驚きを隠せない。TV報道では、「馬鹿野郎」「死ね」「滅びればいう」という片言の日本語で伝える姿が出ていた。内容はともかく、方法としては、特殊詐欺と同じだ。片っ端から電話をかけて罵詈雑言をいう。国際電話である上、同じ言葉を繰り返すところを見ると、自発的というより、背後に組織があるように見える。
この件で最も驚いたのは日本の野党とマスコミのは反応だ。ここまで、処理水の問題を長引かせたのは、野党と左派の論調だ。
具体的に挙げると、(続く)
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使用するタレントや膨大な広告料に裏付けされたTVなどのマスコミが、報道しないからだ。要するに、経済合理性を人権侵害よりも優先させたからだ。BBCや国連が入って来なければ、ジャニーズの問題は、未だに闇に葬り去られていただろう。
そこで、私は最近、マルクスの「資本論」を読み始めた。共産主義革命を目指そうというものではなく、宇野弘蔵が説いた資本主義を理解する目的で資本論を読むのである。
社会の一部になっている資本主義を理解するのは難しい。唯一理解できる方法は、それに異議を言う人の主張を読むこと以外ない。
個人的な感情や所属している団体の代表ではなく、資本主義のどこが問題で、何を批判しているのか?理解することで、客観的になれる。
マルクス自身はソビエト型の共産主義革命を目指していないことは、資本論を読めば明らかだ。
でも左派の論客や共産党の議員も最近では読んでいないそうだ。
セブン、そごう・西武売却後も雇用維持 グループ配転も:日本経済新聞
https://www.nikkei.com/article/DGXZQOUC30BNX0Q3A830C2000000/
今日、西武池袋本店でストライキが行われる。
実に60年以上を得てのストだという。
私はこのストライキについては別の側面で見ている。
それは、中間団体の重要性だ。
https://x.com/joel_yancey/status/1696724257865351304?s=46
ルソーは、民主主義の根幹は中間団体の存在にかかっていると言った。労組にしても、医師会にしても、宗教団体にしても、全てが中間団体だ。
この投稿が、1600を超えるレビューがあったことに驚く。
30年前から、世界はグローバリズムの流れに乗り、新自由主義経済が一気に進んだ。その結果、
1中間所得層の二分化
2経済格差の拡大
3経済合理性のみを追求するが故の人権侵害など
が多発している。
ジャニーズ事務所の問題も、ビックモーターの問題も社会に出てこなかったのは、(続く)
#いのちのパン研究所
と書いていた。
最初の頃は、このことばを馬鹿にしていた。自分で立っているべきだと思っていたからだ。
でも、今はそれに強く共感できる。
松葉杖があれば、歩くことができる。
それは自分が希望した速さではないだろう。
松葉杖がなければ、立ち上がることさえできない。だから、私は松葉杖に支えられて、前に一歩でも進むのだ。
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そのせいか、いつも私へ16節のように行動してしまう。
「それゆえ、主は恵みを与えようとして あなたたちを待ち それゆえ、主は憐れみを与えようとして 立ち上がられる。 まことに、主は正義の神。 なんと幸いなことか、すべて主を待ち望む人は。 まことに、シオンの民、エルサレムに住む者よ もはや泣くことはない。 主はあなたの呼ぶ声に答えて 必ず恵みを与えられる。 主がそれを聞いて、直ちに答えてくださる。 わが主はあなたたちに 災いのパンと苦しみの水を与えられた。 あなたを導かれる方は もはや隠れておられることなく あなたの目は常に あなたを導かれる方を見る。 あなたの耳は、背後から語られる言葉を聞く。 「これが行くべき道だ、ここを歩け 右に行け、左に行け」と。」
イザヤ書 30:18-21 新共同訳
https://bible.com/bible/1819/isa.30.18-21.新共同訳
今は体調を壊して、あまり動けない。だからこそ、なおもこのことばと続く約束のは言葉にしがみつく。
ある本に、「神を信じるというのは松葉杖を持つことだ」(続く)
「まことに、イスラエルの聖なる方 わが主なる神は、こう言われた。 「お前たちは、立ち帰って 静かにしているならば救われる。 安らかに信頼していることにこそ力がある」と。 しかし、お前たちはそれを望まなかった。 お前たちは言った。 「そうしてはいられない、馬に乗って逃げよう」と。 それゆえ、お前たちは逃げなければならない。 また「速い馬に乗ろう」と言ったゆえに あなたたちを追う者は速いであろう。」
イザヤ書 30:15-16 新共同訳
https://bible.com/bible/1819/isa.30.15-16.新共同訳
このことばは、就職超氷河と呼ばれた時代において、何度となく力になった。
採用枠が、学科で学部生と大学院生の全員に割り当てることが出来なかった時代だ。研究室の先輩は、採用され、さあ研究をまとめるという時に、採用先の会社が会社更生法申請となって、就職活動がリセットしたのを見てきた。
面接の前、筆記試験の前には、何度となくこのことばを思い起こした。
どうも仕事柄、トラブルが起きると直ぐに動くというのが身についている。(続)
「主はこの山で すべての民の顔を包んでいた布と すべての国を覆っていた布を滅ぼし 死を永久に滅ぼしてくださる。 主なる神は、すべての顔から涙をぬぐい 御自分の民の恥を 地上からぬぐい去ってくださる。 これは主が語られたことである。 その日には、人は言う。 見よ、この方こそわたしたちの神。 わたしたちは待ち望んでいた。 この方がわたしたちを救ってくださる。 この方こそわたしたちが待ち望んでいた主。 その救いを祝って喜び躍ろう。
https://bible.com/bible/1819/isa.25.7-9.新共同訳」
イザヤ書 25:7-9 新共同訳
このことばは黙示録を思い起こさせる言葉だ。
黙示録にも、主の再臨のあとの状況が書かれている。こういうのを見ると、新約聖書の視点で旧約聖書を読まないと、分からない。
だが、新約聖書は旧約聖書の理解を前提に書かれている以上、両方を読む必要がある。(続く)
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社会に出ていて、上司の言葉で自分の信条をコロっと変える連中をよく見てきた。その上司が異動となったら、新しい上司に擦り寄って、今までお世話になった方を放っておくようになる。
まして、ヨセフはエジプトの多神教の国にいて、殺されても文句を言うことができない奴隷の身分だ。その中で、彼は、蛇のように聡く、鳩のように素直に仕えてきたのだ。
そして、牢獄に入れられる。ヨセフのことだから、主人に事の真相を訴えたに違いない。でも、聞き入れてもらえなかった。
行った先は牢獄。
聖書は、ヨセフに「主が共におられたので」という不思議な言葉を添える。
父ヤコブのように、御使が昇り降りする梯子を見たわけではない。多分、幻もなかっただろう。なぜなら、そこは牢獄。酷い目に遭ったと容易に想像できる。
そして、聖書は、何年先に出られるのか?、何年を得て看守長に認められたか、書いていない。ヨセフにも、知らされてはいないのだ。
もしかしたら、一生牢獄にいるかも知れない。明日、処刑されるかもしれない。その中でも、ヨセフは神に仕えていたのだ。
「監守長は、ヨセフの手にゆだねたことには、一切目を配らなくてもよかった。主がヨセフと共におられ、ヨセフがすることを主がうまく計らわれたからである。」
創世記 39:23 新共同訳
https://bible.com/bible/1819/gen.39.23.新共同訳
兄弟に売られたヨセフは、主人の家で才覚を現し、大番頭になるが、主人の奥さんに誘惑を受けて、逃げたために濡れ衣の罪で牢獄に入れられる。踏んだり蹴ったりだ。
ヨセフの言動で注意するのは、誘惑を拒否する理由を、こう言っていることだ。
「この家では、わたしの上に立つ者はいませんから、わたしの意のままにならないものもありません。ただ、あなたは別です。あなたは御主人の妻ですから。わたしは、どうしてそのように大きな悪を働いて、神に罪を犯すことができましょう。」」
創世記 39:9 新共同訳
https://bible.com/bible/1819/gen.39.9.新共同訳
神へ罪を犯すことはできないと言って突っぱねたのだ。
これは相当勇気ある行動だ。(続く)
#いのちのパン研究所
今ではその教えが異常なことはわかる。なぜなら、医学や薬学の発展は、間違いなく神の恵みだと思うからだ。だから、病気になれば、癒されるように祈ると同時に医師の指示にも従う。そこのプロセスに、神の恵みと働きを信じるからだ。もちろん、超自然的に癒される経験をしたことはある。でも、それがすべてではなく、万能でもないのだ。
しかし、当時はこの種の教えには悩まされたことは事実だ。もし、この種の教会に行っていたら、私自身もカルト化していたかもしれない。
無力に思う、絶望的な状況になればなるほど、祈りの力を信じることができなくなる。CSルイスの言葉を借りれば、「閉ざされた扉、何度もかかる鍵の音、そして沈黙」を経験する。
だからといって、そういう状況の中で「信仰を持って祈りなさい。」というのは愛のない無責任な言葉だ。
共に泣き、共に、または本人の代わりに祈る姿勢が必要だ。そういうクリスチャンは残念ながら、とても少ない。これが、悲しい現実だ。