あと更に最近思ったこと書くは
そもそもその存在が人間の”主観”や”感情”に立脚した人工概念をそれら主観や感情抜きに語るのって無理だよなってこと
要するに、例えば万有引力や化学反応なんかは人間不在でも存在しているかもしれないけど、社会や経済ってのはそもそも人間の主観なくしては存在し得ないものなのよ
これも定義によるとは言え、人間、もしくは全生命が絶滅した世界で、そこに社会や経済が成り立つのかって話
存在し得ないよね
だから「主観の集合」を意識した合意形成みたいなものはできたとしても、本来の意味での「客観」的な議論なんてしようがない
「たくさんの主観の総体」と、そもそも主観そのものを否定した上での狭義の「客観」って厳密には異なるものだろうし、だからこそそこら辺の議論は最終的にポジショントークにならざるを得ないしそれが間違いでもなんでもないんだよね
最近は「主観的であること」を重視しています
#ポストスペシャリティ や #情報発信は生存発信 的な文脈においても
#したい哲学 #したい科学 #タグツリー #独自独学論 #独自独学法 #情報発信は生存発信 #ポストスペシャリティ
あとこの流れであんま関係ないけど書いちゃお
俺が最近思っていることは「基礎問題」も”応用”だっていうこと
そもそも”問題を解く”って意識そのものを捨て去って、ひたすら読み物として概念を理解しようとすると独学が捗る
「 #とは論 」をひたすら突き詰めるイメージ
そもそも「○○」ってなんなんだ?ということを突き詰める
前にFedibirdの方で、「分析」ではなく「複雑系」思考を行うという流れから、「外部との時空間的な関係性から、つまり外側に一歩引くとその対象の本質的な機能や役割が分かる」みたいなことを書いたけど、それも間違っていないと思う
要するに、「”系”としての車」を意識しないと、分析してばっかじゃ「このハンドルという円盤が車全体を動かしているのか?とか思っちゃうのよ
「このハンドルが量子もつれで車全体と相互作用している可能性があるからハンドルの材料を分析してみよう」とか言っちゃって
けどちょっと視点をマクロに広げれば何かしらの機械仕掛けで割と(量子力学なんかと比較すると)シンプルに作用しているだけだって分かる
ハラリは「人間は小麦に自己家畜化した」って述べていてその歴史に対してネガティブな印象を持っているようだけど、これは要するに「小麦は”人間”がわざわざ適応するに値する対象ではない」っていう強いイデオロギーとしてのべき論としての”人間原理”に基づいている可能性がある
良い意味で自己中心主義的というか人間中心主義的というかあるいは神中心主義的なのかもしれない(聖書の中に人間は小麦に適応しろなんかて書いていない)
同じように「”未熟な論理”への自己家畜化」ってのは一つの現代病として捉えるべきだと思うよ
自身の生まれ持った感情を意識的に適応させなければならないほどに既存の知識体系や情報に基づいた論理は果たして妥当性があるのか、電子や光子が古典力学に従う必要があるのかという問題と論理的に同類の問題として考えていく必要がある
要するに「現象が既存の理論に従うべきか」、あるいは「説明不可能な現象に合わせて新たな理論が提唱されるべきか」というシンプルな問題