割れた鏡が映しだすいくつもの像のようだ。"ガンダム"の中にもまた、ひとことでは語れない戦争の姿がある。富野監督が戦争に、それに関わる人間関係に、こだわる理由というのはなんだろう。でもそれは、監督自身にも答えられない、解らない理由なのかもしれない。もうひとつ、"ガンダム”で重要なのは、世界の変化だ。ひとつの世界が終わり、新しい世界が生み出されるのに伴う、価値観や考え方の変化だ。誰も最後まで、変わらぬ人間ではいられない。何かを失い、また何かを得る。 そこにはまた、思春期の子供から大人へ向かう少年・少女たちの成長の儀式もある。もしかしたら、成長に伴うイニシエーションが消えてしまった現代社会の中で人々は、 その成長の儀式を再現するために、ガンダムを愛し、必要としてるのかもしれない。"ガンダム"の中にある戦争や戦闘、世界の変化や再生はまた、少年期・少女期の成長するあやうさと共鳴しながら、ふるえながら、人生の避けがたい生と死の深い淵を見つめさせてくれる。
今のところ、キングコングと、小人(リリパット)の国へ行ったたガリバーぐらいしか思いつかない。日本人は、巨大なキャラクターが好きなんだろうか。ゴジラもウルトラマンもガンダムも、すべて戦後の産物だ。どの物語にも、戦争や戦闘が関わっている。ここに何か共通の、巨大である理由"があるのだろうか。その秘密とは何だろう。それは戦後の日本人の、戦後後遺症としての物語なのだろうか。 巨大なものに投影される日本人の自我は、神を見失った国土に超越者を求めて、肥大化したのだろうか。昭和十六年生まれの富野監督はものごころついたころには終戦を迎えており、戦争を知らない子供たち”の世代に近い。 この世代は一方では平和憲法の理想と理念に引っぱられ、 一方では安全保障条約の下でアメリカの核と軍隊に守られ、また、片方では東西冷戦の中で絶えず最終戦争の恐怖を感じ、片方ではベトナム戦争を見て混乱するといった、四方に引き裂かれ収拾のつかない矛盾の中で、体験しなかった戦争について、平和について、考えなければならなかった。戦争も平和も分裂し、ひとことで語れない。
"ガンダムの“愛される理由〟
萩尾望都
"ガンダム”に、興味がある。
同時に、原作者であり動画の監督でもある富野由悠季という人の、戦争観、人間へのこだわりにも興味がある。“機動戦士ガンダム"というタイトルで二十年前に始まったこのロボット・アニメーションは、マニアックとも言えるファンの熱気に支えられ、"ガンダム”というキーワードをもとに、主人公、時代設定を変えて、多岐にその世界を広げていった。
長期にわたってこれほど支持され愛された "ガンダム"とは何だろうか。 "ガンダム”には何か特に "愛される理由"というのがあるのだろうか。その秘密は何だろう。活劇物で長期にわたって根強い人気を博したというと"ゴジラ”をすぐに思い出す。あの巨大な恐ろしく悲しい怪獣。
そして "ウルトラマン" を思い出す。変身して宇宙怪獣と戦ってくれた、あの巨大な正義の味方。そして、 "ガンダム”という巨大ロボット。 実は十八メートルという設定だが十分巨大に見える。 日本以外の、世界の物語の中に、こういう巨大なキャラクターは登場するのだろうか。
HGCC Turn A GUNDAM
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