#体言止め 或いは20箇所以上の修正要求などで話題になった、ある著名演劇人の原稿が没になったとの謂い。
①編集サイドの態度が(伝えられる通りであれば)色々物議を醸すのものであったことと
②公開された文章自体の良し悪しと
③加えて「ボツ原稿を経緯の説明とともにTwitterに上げる」という行為-これは「晒す」に相当するのでは-の是非と
それぞれ個別に評価されるべきであることは、押さえておきたい。
…内容について例えば書評家の豊崎由美氏が早い段階で突っ込んでいたのは良かったと思う。また#校正 にまつわる発言が活発化するような影響もあったようで、人々の知見に寄与するならば、まあ悪いことではないのだろう。
Twitterもマストドンも使い方次第・人次第、という、我が意を得たりの投稿が目につくようになってきた。慶ばしい。
しかし、この「独り言ツール」という概念はひっかかる。特に日本のTwitterでは 'tweet' を「さえずる」でなく敢えて「つぶやく」と超訳()したことが、タガを外すに一役買ったとは、つとに指摘されているが。
独り言でもさえずりでも、何と呼ぼうが〈インターネットにアクセスのある万人に公開された場で発言している〉実態は変わらない。そもそも、何のためにSNSで発信するのか、やはり読者の存在を想定しているはずだ。
燃やすなどは、する側が言語道断なのだが、投稿(ツイート/トゥート etc.)の際にも多くの人の目に触れることを常に念頭に置くべきだろう。
(余談:ざっと書いてから見直して、なんとなく気になって#体言止め を改めました。過剰反応 :bunhdthink: ) [参照]