【「地上にひとつの場所を」1991年 佐賀町エキジビットスペース 二分割 ②】
うす闇に乳白色の布で囲われた卵形の空間が発光しながら浮かび、鑑賞者は靴を脱いで、ひとりずつそこに入っていく。
足もとには毛羽立ったフランネルが敷きつめられて、綿の国のように柔らかだ。
わたしは顔をあげ、ひらけた光景に呆然とした。
ちいさいもの、かぼそいもの、愛らしいもの、透きとおっているもの。
糸や針金や竹ひごや、種やガラスや粘土でできた、名状しがたい、いや、はなから言葉になどならない見たことのない、信じられないほどのかそけさで存在する光の小兵隊のようなものたち。
ふだんは何かに隠れ、ひそみ、そんなあわいのかけらたちが、注意深くこしらえられた安全地帯に無防備に現出している。黙っているなら見ても(いても)いいよと、やすらいで。
その神聖さを天界にたとえるのは容易だが、個展のタイトルにあるように、そこはまぎれもない地上なのであった。
胸の奥でことりと、重いふたがひらくのを感じた。
柔らかく閉じられて立ちあがり、ふくらんでいくものがあった。
【「地上にひとつの場所を」1991年 佐賀町エキジビットスペース 二分割 ①】
————地上に存在することは、それ自体、祝福であるのか。
内藤さんの作品のおおもとにあるのは、つねにそのシンプルな問いである。
つまりは、生きているとは、それだけでよろこびであるのか、と。
そして彼女は、みずからのその問いに対し、つねに熱烈に「イエス」と答えたがっているように見える。
死んだひとに問うて「イエス」と聞き、これから生まれくるひとに「だから、おいで」とやさしく耳うちをする。
それは生の属性である汚れや苦悩を見ぬふりしてのきれいごとではけしてない。
彼女の細い指は、どれほど深い闇からも朝露のような生の輝きをすくいとることができる、特別な指のようにわたしにはうつる。
そして、ほらね、とうれしそうに手のひらにのせ、はかなくふるふると光る粒をわたしたちに見せてくれるのだ。