✝️ 《視よ,神の幕屋,人と偕にあり,神,人と偕に住み,人,神の民となり,神みづから人と偕に在して,かれらの目の涙をことごとく拭ひ去り給はん。今よりのち死もなく,悲嘆も號叫も苦痛もなかるべし。前のもの既に過ぎ去りたればなり》 ― #聖書: ヨハネ默示錄 21:3-4
もしひとが他者を真実に愛しているなら,その他者と共に在る,それだけで幸福なのではないか。自分は未だ基督信仰の奥義に程遠い者だけれども,自分がこの地上での人生の果てに望み見るもの,それは酒池肉林でもなければ,天上の処女を娶って歓を交えることでもない。《神われらと偕に在す》(マタイ1: 23)。この至福の境地へ人間ひとりひとりを導く牧者が神の子イエスだ。
【引用】 コーラン: 井筒俊彦1964年改譯 聖書: 1917年文語譯
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📖 《まことに,まことに,アッラーの伴侶たる人々こそ,なんの恐ろしい目に遇うこともなく,また悲しい目に遇うこともあるまいぞ》
📖 《まことに,まことに,天にある者も地にある者も,すべて挙げてアッラーの御手の中にあるのではないか。そのアッラーをさし措いて,ほかの邪神どもを崇める者どもが信奉しているものといえば…。要するに,自分の思惑を信奉しているに過ぎぬ。どうせいいかげんな憶測を働かせているだけのこと》
― #コーラン: 第10章「ユーヌス」 62,66 (井筒訳)
「まことに,まことに」という言い廻しは聖書に出てくるイエスの語り口そのもの。例えばヨハネ3:5を文語訳でみると - 《まことに誠に汝に告ぐ,人は水と靈とによりて生れずば,神の國に入ること能はず》。コーラン翻訳者,井筒俊彦は書いている:
《回教は自らを目してユダヤ教,キリスト教との姉妹宗教とし…この三つの宗教の聖典は同じ一つの神アッラーの,時代と場所とだけを異にする同じ一つの啓示と考えているので,『コーラン』の文章は『旧約聖書』とキリストの『福音書』とを至るところで意識的に踏まえている》
《祈ればなんとかなる》
ホントだろうか? 最近,お酒をやめたいとかなり真剣に思い始めているから。自分の孤独を死ぬまでひとりで支え続けることなど,自分にはできそうにない。
《毎日,様々な思い煩いが心に押し寄せてくるとき,自分で考えて,自分でなんとかしようとするのですけれども,その思い煩いを主に委ねて,ことごとく神様に祈りましょう。主は必ず,私たちに最善をなして下さいます》
断酒と言えば,回教に心を惹かれることも少なくないのだけれど,聖書,特にイエスの理解に関してやはり大きな懸隔を感じる。コーランに登場する「預言者イーサー」は伝統的なユダヤの律法(これは神=アッラーに由来するものとされる)を確証する者なので,その本質は「ひとの罪を赦す権威ある者は神のみ」とするパリサイ主義者と大差がない。自分が聖書を通じて知っているイエスは単なる預言者すなわち人間以上の存在だ。
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サウジに親近感を寄せている(のではないかと思われる)日本人ムスリムに話を聞くと,預言者はあくまで人間であるから神格化してはならない,誕生日を慶賀することも許されない,云々と極めて厳格な見解を述べるのだけれど,他方,イスラム共和国を名乗るパキスタンでは割とフツーにムハンマドの生誕を祝っているようだ - もっともそれでも預言者をビジュアルに図像化することは厳に謹んでいるように見える。ともあれ,回教はあくまで世界宗教なので,幾つかの基本原理を除けば,その教義に対するムスリムの理解は決して一様ではないということなのだろう。
screenshot: https://nitter.ca/PressTV/status/1450769049974190087
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