【泉鏡花「眉かくしの霊」 87分割 12】
「ありがたい、……実にありがたい。」
境は、その女中に馴なれない手つきの、それも嬉うれしい……酌しゃくをしてもらいながら、熊に乗って、仙人せんにんの御馳走ごちそうになるように、慇懃いんぎんに礼を言った。
「これは大した御馳走ですな。……実にありがたい……全く礼を言いたいなあ。」
心底しんそこのことである。はぐらかすとは様子にも見えないから、若い女中もかけ引きなしに、
「旦那だんなさん、お気に入りまして嬉しゅうございますわ。さあ、もうお一つ。」
「頂戴ちょうだいしよう。なお重ねて頂戴しよう。――時に姐ねえさん、この上のお願いだがね、……どうだろう、この鶫つぐみを別に貰もらって、ここへ鍋なべに掛けて、煮ながら食べるというわけには行くまいか。――鶫はまだいくらもあるかい。」
「ええ、笊ざるに三杯もございます。まだ台所の柱にも束にしてかかっております。」
「そいつは豪気ごうぎだ。――少し余分に貰いたい、ここで煮るように……いいかい。」
「はい、そう申します。」
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【泉鏡花「夜釣」十分割 ⑦】
男の児が袖を引いて
「父おとっさんは帰らないけれどね、いつものね、鰻うなぎが居るんだよ。」
「えゝ、え。」
「大きな長い、お鰻よ。」
「こんなだぜ、おつかあ。」
「あれ、およし、魚尺うおしゃくは取るもんぢやない――何処にさ……そして?」
と云ふ、胸の滝は切れ、唾が乾いた
「台所の手桶に居る。」
「誰が持つて来たの、――魚屋さん?……え、坊や。」
「うゝん、誰だか知らない。手桶の中に充満いっぱいになつて、のたくつてるから、それだから、遁にげると不可いけないから蓋ふたをしたんだ。」
「あの、二人で石をのつけたの、……お石塔せきとうのやうな。」
「何だねえ、まあ、お前たちは……」
と叱る女房の声は震へた
「行つてお見よ。」
「お見なちやいよ。」
「あゝ、見るから、見るからね、さあ一所いっしょにおいで。」
「私わたいたちは、父おとっさんを待つてるよ。」
「出て見まちよう。」
と手を引合つて、もつれるやうに、ばら/″\寺の門へ駈けながら、卵塔場らんとうばを、灯ともしびの夜の影に揃つて、かあいゝ顔で振返つて、
【泉鏡花「夜釣」十分割 ③】
女房は、幾度も戸口へ立つた。路地を、行願寺の門の外までも出て、通とおりの前後を瞰みまわした。人通りも、もうなくなる。……釣には行つても、めつたにあけた事のない男だから、余計に気に懸けて帰りを待つのに。――小児こどもたちが、また悪く暖あたたかいので寝苦しいか、変に二人とも寝そびれて、踏脱ふみぬぐ、泣き出す、着せかける、賺すかす。で、女房は一夜まんじりともせず、烏からすの声を聞いたさうである
然さまで案ずる事はあるまい。交際つれあいのありがちな稼業の事、途中で友だちに誘はれて、新宿あたりへぐれたのだ、と然そう思へば済むのであるから
言ふまでもなく、宵のうちは、いつもの釣りだと察して居た。内から棹なんぞ……鈎はりも糸も忍ばしては出なかつたが――それは女房が頻しきりに殺生を留める処から、つい面倒さに、近所の車屋、床屋などに預けて置いて、そこから内證で支度して、道具を持つて出掛ける事も、女房が薄々知つて居たのである
処が、一夜あけて、昼に成つても帰らない。不断そんなしだらでない岩さんだけに、女房は人一倍心配し出した
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