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【「小説伊勢物語 業平」 十分割 ⑩】
 元親は主人業平の意に添いつつも、
「この話、思いのほか深うございます。女の心は、執心が顕れぬ加減にて、心染むものとなりましょう。色も重ねれば黒く重とうなります。幼き頃より知りたる妻こそ、執心はあれどそれが顕れぬ程にて、思いやる歌にとどめましたのでは。もしや植え込みの陰にて、耳そばだてる夫のこと、気付いておりましたのでは」
 夜更けても尽きませぬ。それぞれが筒井筒の成り行きに自らの意を申し立てます。
 これらの声を呑み込むように、雨が降り出したのでございます。
憲明がふと口に当てた杯をそのままに、呟きました。
「……この話し、どこかで聞いたことがございますが、もしや業平殿ご自身の懺悔では……」
業平、わずかに頬を緩めただけで、何も申しません。

                     

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【「小説伊勢物語 業平」 十分割 ⑨】
  君こむと言ひし夜ごとに過ぎぬれば
    たのまぬものの恋ひつつぞふる

 あなたが来ると仰った夜は、そのたび空しく過ぎてしまい、もうあてにはしませぬが、それでも恋い慕いつつ過ごしております。
 男の心は離れてしまい、ついに通うことは無くなったのでした。
 話し終えて業平、呟くのでした。
「……いかに幼きころより良く知り、心通う仲であっても、男は他の女に懸想してしまうもの。それでも優れた心根の女の元へ男はついに戻るもののようで」
 確かにそのようで、と頷きつつも覚行は、
「……その高安の女も哀れでございます。飯の手盛りはいかにも鄙の女、何が不都合にて男が離れたか、解らぬままでありましょう」

                     

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【「小説伊勢物語 業平」 十分割 ⑧】
 とは申せ、ごくまれに高安の女の家に来てみると、前には奥ゆかしげに振る舞っていたのに今は、だらしなく気を許し、自らの手で杓文字にて飯を盛る有様。男は興醒めて嫌になりました。
 女の思いは変わらず、男の住む大和の方を見遣り、歌など詠むのです。

  君があたり見つつ居らん生駒山
    雲な隠しそ雨は降るとも

 あの人が住んでおられる方角を、何度も何度も見ながら待ちましょう。雲よ、生駒山を隠さないで下さい、たとえ雨の降ることがありましょうとも。
 あなたの住む生駒山を、私は見て居たいのです、と歌を贈り、あいも変わらず外をぼんやりと見ていました。
 男もその執心にほだされ、ようやく、ならば参りましょう、と返事を致しました。
 高安の女は、男が訪れるという文に、喜び待ちますが、予定する日が幾度も過ぎてしまい、訪れはありません。

                     

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【「小説伊勢物語 業平」 十分割 ⑦】
 もしや妻は浮気心があるので、このように快く送り出すのではないか
 男は河内の高安へ行ったふりで、庭の植え込みの中に隠れて様子を見ていると、妻は丁寧に美しく化粧をし、物思いにふけり、外を眺めているのです
 さらに筆をとり、歌を詠みて書き付けます
 ああ、やはり
 男の胸が灼けて騒がしいのは、歌を贈る先が、他の男に違いないと思う紛うているからです
 妻が書き付けた歌を、他の思い人への相聞とばかりに思い込む男
 身を隠す植え込みの中にて、妻が詠む歌に懸命に耳傾けます。
 妻の歌はこのようでありました

  風吹けば沖つ白波たつた山
    夜半にや君がひとりこゆらん

 風が吹くと沖の白波が立つのと同じに、恐ろしい名前のたつた山です
あの人はこんな夜半に、一人で越えて行かれるのでしょうか。どうぞご無事で
 河内の女のところへ行くと知って、なおこのように夫の身を案じる妻
 男は驚き悔い、妻を限りなく哀れに思い、もう河内の高安の女のところへは行くまいと決めました
         

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【「小説伊勢物語 業平」 十分割 ⑥】
 背丈がこの筒井の井筒の高さを越えたら結婚をしようと願掛けて来た私ですが、もう井筒の高さを越してしまったようです。あなたとお会いしない間に。
 するとその女からも返しの歌がありました。

  比べ来しふりわけ髪も肩過ぎぬ
    君ならずして誰かあぐべき

 あなたと髪の長さを比べてきた私の振り分け髪も、もう肩を過ぎる長さになりました。あなたの他のだれのために、髪上げをするというのでしょうか。あなたのためだけです。
 このように、お互いの思いを何度も言い交わし、ついに幼な恋の心のままに結婚したのでした。
 ところが年月が経ち、何かと男の世話をしてきた女の親が亡くなり、生活の支えが無くなるにつれ、二人がともに住んでいると惨めな生活になるのではと男は案じ、河内国の高安の郡に新たに通う女ができたのです。
 この妻はそれでも男の行いを責めず、気持ちを込めて見送るものだから、男はかえっていぶかります。
                

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【「小説伊勢物語 業平」 十分割 ⑤】
「寺に無くては困るのが筒井でありますが、山科は幸いにも、山より筧の水が年中あふれ……」
 と筒井に興は覚えぬ様子。
「……筒井は童の遊ぶところのみならず、恋の行くえにも関わる話しが……」
 と業平が語り始めますと、旅のつれづれに、皆杯を手に聞きおります。
 あれは、大和に近いとあるところ、家々の者たちが水を汲む筒井がございました。
 筒井は今も昔も子らが集まり遊びます。その中に田舎をまわるのを生業とする人の子が居り、幼いながら共に遊ぶ女を恋しく思い、やがて長じたなら妻にしたいと思います。
 近くに住むその女もまた、この男をこそ夫にしたいと思い続け、親が他の男を向けても首を縦に振らないのでした。
 この二人、幼な恋を手放さず、お互いを思いながら長じて参ったのです。
 やがてこの男より女に歌が届きました。

  筒井つの井筒にかけしまろがたけ
    過ぎにけらしな妹見ざるまに

                 

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【「小説伊勢物語 業平」 十分割 ④】
 馬の口取りも、どこかで聞き覚えた歌など歌いおります。
 景色の良いところに幕を張り、その内にて家人らが用意する御酒や御食を口にする興趣にも、皆々、慣れて参りました。
 旅の風に目覚めて風情ある所に到れば、歌会なども行います。
 三河に入り、郡司の館に旅寝することに。
 館の裏庭のただ中に、竹で囲われた筒井があり、そのまわりに童たちが遊びおります。
 館の子か、近くに住まう子か。
 家人たち、馬の水を求め桶に汲み居りますと、衵姿の女童はいくらか長じた様子で、同じ年頃の童と競い合い、手伝いなどいたします。
 童二人はときに諍いとなり、やがてまた力を合わせて、都の貴人たちに加勢いたします。
 都に子たちを残して来た供人らも、子らの声に思わず笑い、相手いたしました。
 その夜。
 郡司のもてなしを有り難く頂いたのち、業平、筒井の記憶を呼び覚まして、
「……筒井には、それぞれ胸の底に、幼きころの古の物語を秘めておられるはず」
 と申せば、覚行は杯を置き、

          

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【「小説伊勢物語 業平」 十分割 ③】
 この海のかなたに、斎宮があると思えば、恬子様を訪ねたい心持もあり。
 とは申せ、それは朝廷の許しなければ叶わぬことです。
 白い波が寄せては返すのを、馬より下りて眺めおりますと、思いが口より溢れ出て参りました。
松のたもと、砂に座して書き付けます。

  いとどしく過ぎ行く方の恋ひしきに
    うらやましくもかへる波かな

 過ぎ去った都の日々がこの上なく懐かしく恋しく思われます。それにしましても、、浦に寄せる波も、たちまちもとに戻りますのは、羨ましいことでございます。私は波のように、京に帰ることは叶いません。
 他の供人も、業平を囲み、座しておのおの歌を詠みました。
 この海より離れたくはりませんでしたが、次の宿へ急がねば、この浜にて草伏すことに。
 一行は陽のあるうちにと、先へ馬を進めました。
 尾張の東海道は、良く整えられた幅のある官道でございます。豊かな土地らしく、通行の人の身形も、都人との違いさほどなし。

             

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【「小説伊勢物語 業平」 十分割 ②】
 都を望めば、そこに高子姫が居られます。行く先は伊勢にも続く道。恬子斎王がお暮らしの伊勢がございます。
 馬三頭に目に立つ狩衣指貫姿、それに供人たちが橋の上に立ち止まりおりますので、都へと急ぐ者、出る者が見上げ混み合います。
 はやお急ぎを、と憲明が申しますが、業平の目には涙がひと筋。芥川の嵐の夜が、まるで悪い夢のように瞼を流れて参ります。
 噂では高子姫、何事も無かったごとく、五条の后邸にて、過ごしておられているとか。
 その心中を思うことさえ、今となれば、思い湿ることでございます。

 近江の草津あたりにて、東山道と分かれて鈴鹿の峠へと急ぎます。そこより伊賀の国。
山道は険しくはありましたが、恬子斎王も通られた道でございます。
 覚行の手配しました山房へ泊まり、やがて伊勢と尾張の国境へと出て参りました。
 伊勢の海浜が足元にまで寄せて、姿の良い松なども、見渡せます。

                 

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【「小説伊勢物語 業平」 十分割 ①】
 芥川にて、高子姫を失った痛みは大きく、恋を失ったのみならず、自らの思い上がりに打ち砕かれております。
 思い屈した果てに山科の住持覚行を訊ねると、東国へ下るのを勧められ、ご自身も随行したいと申されました。
 藤原基経国経のお怒りは、表立つようには見えませぬが、ここはしばし都を落ちるのが、あとあとのため、高子姫のためでもあるとの深慮でございました。
 永岡の所領を預かる基親も、今は亡き母君伊都内親王の財産は、ただお一人のお子のためにこそ使われてあるべきと銭に替えて同道することに。
 むろん憲明あよび家人も数名伴って、東国目指しての出立でございます。
 業平一行は、勢多の大橋まで来て、橋の半ばに立ち止まり、馬上より振り返りました。
 ここはすでに近江の国、足元には琵琶湖より流れ出す勢多川。
 流れ出した水は二度と湖には戻れませぬ。
 橋のたもとにて、東に下る人に手を振る姿もそこかしこに見えます。
               

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業平忌
在五忌
平安時代の歌人、在原業平の忌日。陰暦五月二十八日

こゝに来て。昔ぞかへす。在原の
寺井に澄める。月ぞさやけき。月ぞさやけき
月やあらぬ。春や昔と詠めしも。いつの頃ぞや。筒井筒
つゝゐづつ。井筒にかけし
まろがたけ
生ひしにけらしな
老いにけるぞや
さながら見みえし昔男の。冠直衣は。女とも見えず
男なりけり。業平の面影
見ればなつかしや
我ながらなつかしや。亡婦魄霊に姿はしぼめる花の。色なうて匂
残りて在原の寺の鐘もほのぼのと。明くれば古寺の松風や芭蕉葉の夢も
破れて覚めにけり夢は破れ明けにけり

花も忘れじ
花も忘れぬ
心やをしほの
山風吹き乱れ散らせやちらせ。散りまよふ木の下ながら
まどろめば。桜に結へる夢か現か世人定めよ
夢か現か世人定めよ。寝てか覚めてか
春の夜の月。曙の花にや。残るらん

          

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