> 疲弊する現場、「#自己責任」のリアル、政策の不条理…
暗いトンネルのような2010年代。#新自由主義 と #国家主義 が猖獗をきわめる #教育現場 の「いま」と、そこにいたるまでの系譜をたどる。果たして希望はあるのか? 私たちが直面している社会のリアルを乗り越える。
> はじめに
> 第1章「#教育再生」の再生のために × #斎藤貴男 × #佐藤学
> 第2章「#受益者負担 の論理」を超えるために × #宇都宮健児
> 第3章「#教育の病」から見えるブラック化した #学校現場 × #内田良
> 第4章「#日常の戦争化」に抗する × #斎藤美奈子
> おわりに
#大内裕和『#ブラック化する教育』 #青土社 #教育 #教育問題 #日本の教育 #OUchiHIroKazu #HiroKazuOUchi
#hirokazuouchi #ouchihirokazu #日本の教育 #教育問題 #教育 #青土社 #ブラック化する教育 #大内裕和 #斎藤美奈子 #日常の戦争化 #内田良 #学校現場 #教育の病 #宇都宮健児 #受益者負担 #佐藤学 #斎藤貴男 #教育再生 #教育現場 #国家主義 #新自由主義 #自己責任
でも「このポールには何の意味があるんですか?」とか「自分はハンドルの回転数とバックしているスピードで考えたいんですが」というような生徒は怒られる。
教習所はそんな需要に対応する用意はしていないし、いちいち生徒によって教え方を変えていたのでは効率が悪すぎるからだ。
学校でもそうだ。教科書に載ってないやり方をすることは容認されないし、試験では「できるかどうか」ではなく、「教えられた方法を覚えているかどうか」が問われる。
こういう、産業的というか、軍隊式というか、とにかく効率第一で、人間のほうに型にはめられる努力を要求するやり方が日本の教育なんだと思う。
日本の教育は自動車教習所方式だ、とずっと思っている。
たとえば、教わることの一つに方向転換がある。T字型になっているコースで、停車してからバックして側道に入って90度向きを変え、再び前進して本線を最初とは逆の方向に進む。現実の世界では方向を変えるというよりは車庫入れなどに約立テクニックだ。
その時、日本の自動車教習所では、
「そこに停めて、バックに入れたらハンドルをいっぱいに切って、後ろに立ててあるポールの三本目が見えたらハンドルを戻す」
みたいなことをずっと教える。
現実の世界では車庫入れの時にポールは立っていない、というようなことには注意を向けない。なぜなら、運転免許のための試験コースにはポールがあり、それを見ることを覚えれば試験には通るからだ。
もちろん、そこで覚えたこともある程度は役に立つ。ポールを見て反復練習をしているうちに感覚が身につき、その感覚は路上に出てからも応用が効く。だから、全くの無駄ではない(続く)