あと更に最近思ったこと書くは
そもそもその存在が人間の”主観”や”感情”に立脚した人工概念をそれら主観や感情抜きに語るのって無理だよなってこと
要するに、例えば万有引力や化学反応なんかは人間不在でも存在しているかもしれないけど、社会や経済ってのはそもそも人間の主観なくしては存在し得ないものなのよ
これも定義によるとは言え、人間、もしくは全生命が絶滅した世界で、そこに社会や経済が成り立つのかって話
存在し得ないよね
だから「主観の集合」を意識した合意形成みたいなものはできたとしても、本来の意味での「客観」的な議論なんてしようがない
「たくさんの主観の総体」と、そもそも主観そのものを否定した上での狭義の「客観」って厳密には異なるものだろうし、だからこそそこら辺の議論は最終的にポジショントークにならざるを得ないしそれが間違いでもなんでもないんだよね
最近は「主観的であること」を重視しています
#ポストスペシャリティ や #情報発信は生存発信 的な文脈においても
#したい哲学 #したい科学 #タグツリー #独自独学論 #独自独学法 #情報発信は生存発信 #ポストスペシャリティ
こんな感じの非分析的かつ非”解答する”思考って大事や
結局のところ「深く理解すること」そのものがまず一つの大きな難題なのでそれすっ飛ばして応用として基礎問題とかする必要性がない
そもそもあらゆる対象の理解や学習に関して言うと、深いところにある基礎的な0から10までくらいの領域というのは人間的な視点が必要とされることもあるだろうし、実際に楽しいけど、より具体的な「問題を解く」みたいな11から100くらいまでの応用的なステップに関して言うと、そこはもう完全にAIなどのコンピュータの領域なのでやる必要性がないのよね
AIが対象を概念的に「理解」していないことはあっても、「計算できない」なんてことはこれからなくなっていくだろうからね
重要なのは理解であり計算ではない
前に「教養とは”世界観”を変える(あるいはより正確に世界を視るための)(もしくは世界観の視野の幅を拡げる)知識情報のことだ」と定義しただけど、まさに対象に対する教養的動機に基づいた深い本質論への関心ってのも大事だなと思っている
ニュアンスとしては”理解”ってよりも”洞察”ってのがよりピンと来るかもしれん
あとこの流れであんま関係ないけど書いちゃお
俺が最近思っていることは「基礎問題」も”応用”だっていうこと
そもそも”問題を解く”って意識そのものを捨て去って、ひたすら読み物として概念を理解しようとすると独学が捗る
「 #とは論 」をひたすら突き詰めるイメージ
そもそも「○○」ってなんなんだ?ということを突き詰める
前にFedibirdの方で、「分析」ではなく「複雑系」思考を行うという流れから、「外部との時空間的な関係性から、つまり外側に一歩引くとその対象の本質的な機能や役割が分かる」みたいなことを書いたけど、それも間違っていないと思う
要するに、「”系”としての車」を意識しないと、分析してばっかじゃ「このハンドルという円盤が車全体を動かしているのか?とか思っちゃうのよ
「このハンドルが量子もつれで車全体と相互作用している可能性があるからハンドルの材料を分析してみよう」とか言っちゃって
けどちょっと視点をマクロに広げれば何かしらの機械仕掛けで割と(量子力学なんかと比較すると)シンプルに作用しているだけだって分かる