📖 福沢諭吉の『福翁自傳』,緒方洪庵蘭学塾での修行時代を回顧したくだりより。
《醫師の塾であるから政治談は餘り流行せず,國の開鎖論を云へば固より開國なれども,甚だしく之を爭ふ者もなく,唯當の敵は漢法醫で,醫者が憎ければ儒者までも憎くなつて,何でも蚊でも支那流は一切打拂ひと云ふことは何處となく定まつて居たやうだ。儒者が經史の講釋しても聽聞しやうと云ふ者もなく,漢學書生を見れば唯可笑しく思ふのみ。殊に漢學書生は之を笑ふばかりでなく之を罵詈して少しも赦さず…》
《彼の樣ァ如何だい。着物ばかり奇麗で何をして居るんだ。空々寂々チンプンカンの講釋を聞いて,其中で古く手垢の附てる奴が塾長だ。こんな奴等が二千年來垢染みた傷寒論を土產にして,國に歸て人を殺すとは恐ろしいぢやないか。今に見ろ,彼奴等を根絕やしにして呼吸の根を止めて遣るからなんてワイワイ云たのは每度の事である…》
福沢諭吉は「脱亜論」が取沙汰されて最近は評判が悪いようですが,中国文化に対する軽蔑と敵意は,諭吉に限らず幕末明治期の若い洋学者たちに広く共有されていた気風だったように思われます。